父の会社の都合で 2 歳から 3 歳まで広島県にいた。
google map で探してもさすがに 三十数年前の地形とは違うのでからっきし探せなかった。
近くに大田川があって土手まで歩いていけたこと。
当時の住所は広島県佐伯郡安佐南区戸坂(へさか)という住所だった。
土手で一人待たされて、父がジョギングに行って寂しくて泣いたこと。
四輪のロマンティックな乳母車をいつまでも乗りたがって、母に恥ずかしい思いをさせたこと。
空き地で遊んでいて石につまずいて転んだら左足を骨折しておんぶで病院に連れて行かれてギプスされたこと。
骨折の痛みより、ギプスをはずしたあとの水色の綿みたいなのを足からはがすために粘着テープでビリビリされてそっちが痛かったこと。
自家中毒になってスーパーで吐いて母親が困惑していたこと。
フルーツの売り場前だった。
結局、一日入院した。
そこの診察室にある、薬の販促用のピンク色のマスコットがあるのが気持ち悪かった。
城北幼稚園のみどり組で幼稚園の送迎バスで通っていた。
幼稚園の担任の先生は高橋先生だったこと。
そこは制服で無地で水色のスモックだったんだけど母が「クレオラ」で可愛いゾウさんの絵を描いて一人恥ずかしかったこと。
歩いていける場所に歩道橋があって、その下で「カラーヒヨコ」が売っていたこと。
よく「ナタリー」という遊園地に連れて行ってもらった。
毎週末無理をいって連れていってもらった。
冠山スキー場にも行ったことが一度ある。
安佐動物園にもよく行った。
当時、 銀色のホンダの Z (ゼット)に乗っていた。
途中で白いシビックに買い換えた。
実は父はアコードが欲しかったんだけど、お金がなくてシビックにした。(一緒に販売店に行ったので覚えている)
広島駅のそごうの屋上から市営球場が見え、野球もそこそこ状況が判るくらい見えた記憶がある。
当時は衣笠とかがすごい勢いで活躍していた。
一人留守番で母が買い物に行って寂しかったのでそのスーパーまで一人で行って一本道路を渡らなければならなく、信号の意味が判らず道路に出たら車にはねられそうになっったこと。
そのスーパーはいつも口笛の BGM が流れていた。
「トゥルットゥトゥルル、ルットゥトゥ~、ルットゥルットゥル~」
三歳の七五三で(親の勝手な意向で)新日本髪を地毛で結うために生まれてから前髪以外は切っていない。
広島の護国神社でお参りをし、 HNK に撮影をされて、その日のニュースで何度も流れて、 NHK からその映像写真をもらった。
買ってもらった自転車が気に入らなくてどうしても乗ろうとしなくて、近所の自転車屋を覗いたら、補助輪付のゴレンジャー自転車があって、コレにする!と頑として譲らなかった。
でも、価格が高くて親が月賦で買ったような記憶がある。
補助輪のところに小さなサイドカーが付いていて、グリップエンドにヒラヒラがついて、たしかスズキ製だった。
すごく気に入っていて、結局 9 歳まで乗っていた。
よく母は「ナマコ」を買って来て「ナマコ酢」を作っていた。
父は合気道や書をやっていた。
師走に父が書で年賀ハガキを書いている最中に父に墨をすってあげようと思い、すずりに墨をカチカチしていたら、飛まつがハガキに飛んで、ものすごく叱られたけどあとから、ごめんねと頭をなでられた。
バイオリンを始めたのもこのころ。
家にピアノ( KAWAI )のスタンドピアノがあって、よく父の膝に座って鍵盤を触った。
モーツァルトのピアノソナタ 11 盤を片手でポロンポロンと引いていた。
このポロンポロン弾いていたのが仇だったのか?親は「この子には絶対音感がある!」と勘違い。
広島駅から商店街(角に SUZUTAN があった)を通って教会にある音楽教室でピアノを始めようとしたら、先生にヴァイオリンを持たされて、そこで先生は「このコはヴァイオリンの才能がある」ということでなぜかヴァイオリンを習わされた。
初めての家でヴァイオリンの練習は際の母の鏡台を背にして立ち、開放(弦を押さえず) A 線(ラの音)をただひたすら弾いた。
でも最初は音がかすれて、母に怒られるんじゃないかってビクビクしながら弾いた記憶がある。
結局、東京へ引越し、そのままスパルタ教育で桐朋学園の子供のための音楽教室に通ったわけで、まんざら才能がないわけではなかったようだ。
才能はあったが根性がなかった。
五嶋みどりが楽屋の廊下でお母様に叱責されているのを見かけたのもこの頃だ。
ながなが書いたのだが、その前述のスーパーで流れていたメロディーの曲名が知りたくなっただけだ。
結局、親は将来を期待し、 手塩にかけて育てたんだけど、36 年たって見てみたら、娘はこんな惨めな人生になっているわけで、さぞ落胆しているハズだ。
最近申し訳なくて、ムスコにもなんだかしのびなく、連絡するにできない今日この頃。
そんな今日はマイバースデー。